薪ストーブクロニクル

食とエネルギーの自給を目指して

バベルの塔

バベルの塔に住んでいる超能力少年バビル2世の話、ではない..。

 

地球上には約2800もの言語があるそうだ。国は200前後しかないのに、その10倍以上の言語が話されていることになる。なんてこった。そりゃ、国同士がお互いに意思疏通するのが難しいに決まってる。

どうして世界中でバラバラの言語が話されるようになったか、それを説明する一枚の有名な絵の話がある。

それがブリューゲルという画家が描いたこの「バベルの塔」という絵画である。

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旧約聖書に出てくる、ものすごーく昔々のお話。その昔、人類は誰もが同じ言葉と同じ言語を用いていた。そこで人々は慎ましく石と漆喰の街で暮らしていた。しかし、あるときから、技術革新が盛んになり、石はレンガになり、漆喰はアスファルトにとって代わられた。その新しい技術を使って、人々は神の住む天上まで達する高い塔を建設しようと力を合わせ始める。自分たちの技術を過信し神の領域に近づこうとした傲慢な人間たちに怒りを覚えた神々は、塔の建設を不可能にするために人々がバラバラの言語を話すようにしてしまい、意思疏通のできなくなった人々はお互いに反目しあい、同じ言葉を話すものたちごとに様々な地へ散らばっていった。

 

と、まあざっくり言うとこんな感じのストーリーだ。本当にあったこととは思えないが、現代でも、バベルの塔だったんじゃないか、という建物の跡が残っているという話もある。

 

いかにも一神教的なご都合主義的なお話にも聞こえるが(あらゆる人が同じ言葉、同じ言語を話していたというそもそもの設定にかなり無理がある気がする)、それでもこの物語には現代に通じる強烈な教訓が込められていると思う。

 

技術を過信し、万能であると勘違いして間違った技術革新を繰り返し、挙げ句に取り返しのつかないことになってしまった経験を私たちもしている。言うまでもなく、原子力発電のメルトダウンのことであり、おそらくは人工知能遺伝子組み換え技術やリニア新幹線や、昔はそんなものがなくても人間が生活できた物の技術革新が進んでもろくなことにならない気がする。これらは単に過度に進んだ資本主義社会をもう一発空回りさせるための「すかしっ屁」でしかないのだ。これこそまさに現代のバベルの塔そのものではないだろうか。

原発の利益構造は日本社会の7割ほどの企業を巻き込んでいるという話なので、もはや後戻りできないほど複雑に絡み合っているが、こんな構造そのものが本当にアホだと思うし、なるべく、関わりたくないと強く思う。

福島の後でも原発と離れなれない腐れ縁なのだとしたら、もはや完全に破滅するまで手放さないつもりかもしれない。

そんな社会と距離を置くにはどうすればいいか?答えは簡単である。

 

薪ストーブ!

 

まあ、薪ストーブだけではちょっと弱いかもしれない。でも、薪ストーブに私たちが心惹かれるのはなんといってもその炎そのものであり、そしてエネルギーを自給している、という充足感だろう。もちろん、山から自分で木を切って薪にまでするという、徹底したオフグリッドぶりを発揮できる人は少ないかもしれない。でも、エネルギーを自給しているという満足感は、現代社会がもつ異常な構造的な闇の裏返しなのではないだろうか。

なんとなくこのままじゃ破滅しそうな世の中で、破滅しなくて済みそうな行いに対して、安心感を感じる気がする。

それは野菜作りでもそうだ。オーストラリアで干ばつが起きると、食システムの事情でなぜかアフリカのセネガルの食糧がなくなって人々が飢える。それってかなり異常なことだと思いませんか。スーパーで普通に食べ物を買うってことは、セネガルの人々の飢えに知らず知らず加担しているということだ。

食とエネルギー、そして人間関係。この3つを自給自足することができれば、お金がなくても幸せに暮らせる。間違いない。それをこのブログを通じて証明しようと思う。

薪ストーブは、その自給する暮らしの斬り込み隊長だ。物語はまだ始まったばかり。もうすぐ給料が半分になるのにワクワク感しかない。なんせ、給料が半分になる代わりに、自由な時間が倍に増える。

自給するスローライフな暮らしに一番必要なのは、時間だからだ。

 

バベルの塔をせっせと建設する人たちを横目に、そんなものを作らなくても幸せに暮らせますよって教えてあげたい。そんなことが本当に可能だろうか?

うーん、やっぱりワクワク感しかない。