映画『人生フルーツ』を観た
話題になっているドキュメンタリー映画、「人生フルーツ」を映画館に観にいった。
もともと津端(つばた)夫妻(修一さんと英子さん)のことは、「時をためる暮らし」という本を読んで知っていたので、映画化されるという話を耳にしたときから楽しみにしていた。
映画の中身については、ネタバレもなにもない。ただ、淡々とつばた夫妻の日常が描かれているだけだ。
しかし、その淡々とした日常そのものが、あまりに素晴らしいものだった。
ネットで検索すれば、映画の概要やあらすじはすぐに出てくるが、敢えて映画の中身について少し紹介したいと思う。
太平洋戦争中は戦闘機の設計なども手掛けたつばた修一さん。戦後、アントニン・レーモンドに建築を学び、1955年に日本住宅公団の発足とともに入社する。
新進気鋭の建築家として、雨後の竹の子のごとく出来始めていたニュータウンの団地全体の設計を任されたりする。阿佐ヶ谷団地や多摩平団地など。
その後、地元岡崎市の高蔵寺ニュータウンの都市設計を任されることになった。効率を最優先せず、自然な地形を活かした当時としてはかなりユニークな街並みのニュータウンを設計するものの、時代の先を行きすぎていたためか、つばたさんの都市設計案は廃案となってしまい、結局他の町同様、キャラメル箱を並べたような平板な団地の一画に土地を買い、そこに雑木林とキッチンガーデンのある家を建てる。
映画は、そんな高蔵寺ニュータウンの一画のつばた夫妻の家での暮らしが淡々と描かれている。自宅の竹林に生えた筍を収穫したり、柚子や梅やサクランボなど、40年育てた果樹の実を収穫したり。300坪の敷地は、ニュータウンの一画とはにわかに信じがたい、自然に満ちた暮らしが展開される。
つばた夫妻が提唱するそんな暮らし方は「時をためる暮らし」と呼ばれる。
コツコツと毎日を大切に過ごした結果として、家にも壁にも、雑木林にも畑にも、その年月が少しずつ刻まれていく。地道な日々の暮らしを大事に過ごすことによって、身の回りの全ての物に年季が入り、愛着が湧き、その年月が蓄積される。
一日一日を大切に暮らしてきた、その積み重ねが見える暮らしを「時をためる暮らし」と言うのだ。
それはちょうど、スパンの短い憧れやメディアの煽りに影響されて自分の身の丈に合っていない暮らしをしたり、都会での仕事に追われているうちにいつの間にか歳をとり、無駄な時を過ごしてしまったと後悔するような生き方の対極をいく暮らし方だ。
一見すると劇的なことは起こらないかもしれない。しかし、よく観察すると、自然は日々姿を変え、ダイナミックにうねりながら変化していく。植物も動物も、実に多様な面白さに満ちている。
逆に、どんな都会的な暮らしの刺激も、やがて慣れて麻痺していく。するともっと刺激が欲しくなる。しかし仏教の考え方では、この刺激を延々と求める状態は精神的にはストレスでしかないのだそうだ。
刺激を追い求める暮らしでは、時をためることはできない。むしろ、ミヒャエルエンデの「モモ」に描かれているように、灰色の服を着た時間泥棒に時間を盗まれて、気がつけば老いているのに何も残っていない、という状態になりかねない。
・・・・
とまあ、そんなことを考えさせられる、つばた夫妻の暮らし。
昔は当たり前だった暮らし。今は時代遅れと思われている暮らし。
日々を慈しむ暮らしをコツコツと続けるとどんなことが待っているんだろうか。
そんなことを考える映画だ。
全然映画の説明になっていなかった(汗)。
さっきも書いたが、あれこれ説明するほどの複雑なストーリーはない。
こんな淡々とした映画なのに、なぜか涙が出る。
悲しいシーンではないところで、ありふれたはずのシーンで、不思議と涙がこぼれた。
素晴らしい映画だ。ぜひ、観て欲しい。
映画館を出て、現実に戻る。
さて、つばたさんみたいな、素晴らしい先輩がいるのだ。
食べ物とエネルギーの自給を目指す暮らし。強く背中を押された気分だ。
一応、念のため断っておくが、都会の暮らしがダメで、田舎暮らしがいい、と言っているわけではない。つばた夫妻も、大自然の中ではなく、ありふれたニュータウンの一画で半農的な暮らしをしているのだから。
田舎であろうが、街であろうが、大切なのは心の持ちようだと