薪棚についての考察~薪割りやニーチェについて~
世の中には実に様々な薪棚があるものだ。
色々薪ストーブ関連のサイトやブログをみたり、本を見たり、車を停めて実物をまじまじと眺めたり、いろんな薪棚を見てきたが、基本的には実用性が大事なものであり、美しさや、細部の造形なんかは無いものがほとんどだ。
そしてほとんどの人がDIYで、つまり日曜大工的に作っている。性格の差こそあれ、必要以上にお金をかけようとする人はそんなにいないと感じた。
そして自分で薪棚を作ってみて、それはそれで、あまりこだわりを持たずに、実用性一辺倒なものになった気がする。
薪棚はそんなものだろう。たぶん。
しかし、いざそこに自分で割った薪が入ると状況が一変する。はずだ。
薪ストーブは、炎の揺らめきを楽しみ、暖かさを楽しみ、その火を使った料理を楽しむものだ。
しかし、誤解を恐れずに言うなら、薪ストーブにおける最大の充実感は、自分で割った薪を薪棚にぎっしりと並べた光景を眺める瞬間なのではないだろうか。
木の断面が三角や四角にずらりと並んでこちらを向いている光景。
なぜだろうか、自分で割った薪棚を眺めていると、何とも言えない不思議な充足感に満たされた気持ちになっていく。
森本哲郎辺りなら、きっと「名状しがたい気持ち」とか書くんだろうなぁと想像する。なんとも言い難い、満たされた気持ち。
おそらく自分で自分の生活を組み立てている、エネルギーを生み出しているという事実が、形として現れているのが薪棚というものなのではなかろうか。
オフグリッドの具現化。自給自足の具象化。
IOTでユビキタスな世界の潮流とは完全に真逆のこの充足感。
ニーチェも書いている。
身体をフィジカルに使って得た疲労感、充足感から発せられた言葉。「これが生きるっていうことなのか、よし、もう一度」とツァラトストラに言わせている。
まさかニーチェが薪割りについて言及しているわけではなかろうが(笑)、実感として、一番近い気がする。
そんな生きるというシンプルな作業の充足感を端的に「見える化」してくれるのが薪棚ではないだろうか。
もちろん、形が整っていて美しい断面をずらっと並べた、端正な薪棚は見るものをうっとりとした気分に酔わせるだろう。それが全て楢やくぬぎなら、文字どおりその光景に酔いしれそうだ。
しかし、例え断面が黒ずんでいようとも、不揃いであろうとも、針葉樹の比率が多かろうとも、自分で割った以上は、そこに大いなる充足感を見いだせるはずだ。
そのぎっしりと薪棚につまった薪たちが、来るべき冬の暖かさを約束してくれるのだから。
こんなことを書いていると薪棚をいっぱいにしたくなってきた(笑)。
これが生きるっていうことなのか
よしもう一度!