薪ストーブにおける、祈りと不便益
薪ストーブに火を入れて、ぼんやりその火が大きくなっていくのを眺める。
少し火を大きくしたくなると、杉の葉っぱを足したり、細い端材の切れ端を入れたり、乾燥したミカンの皮を放り込んだり。
そのときの気分で火と向き合う。
ひと冬焚き続けたので、さすがに焚き付けのさじ加減は分かってきた部分もある。
焚き付けを使いすぎだなーとかもう少しうまく焚けるんじゃないかなーと思うこともよくある。
まだまだこれからなので、その辺はだんだんうまく焚けるようになっていくだろう。
炎はだんだん大きくなってきて、耐熱ガラス越しにも熱が伝わってくるようになってくる。
古代ペルシャを起源とする、火を信仰の対象としたゾロアスター教という宗教があるが、その気持ちも分かる気がする。
焚き付けをしていると、特にその火を見ていなくても大丈夫であっても、無心で火を眺め続ける自分を発見する。
大袈裟に言えば、それは炎をその目に写しながら祈りを捧げているとも思える。少なくとも祈りに似ている。
やがて、ストーブは泰然たる炎をあげながら、その蓄えた熱を部屋全体に放ち始める。
三月には、その熱量は暑すぎるときもあるのだが、真冬に体感する薪ストーブの輻射熱は他には代えがたい魅力的なぬくもりだ。
猫も人間も、薪ストーブの回りに集まって暖をとり、やがて部屋全体が暖まるにつれて、ソファや藤の椅子へと場所を移して思い思いにくつろぐ。
これで満足しなければいけないのだろう。
人間は、100年以上も前にこのような快適で満ち足りた装置を造り上げたにも関わらず、そこで満足できなかったのだろうか。
さらに楽な、さらに快適な、さらに贅沢な暮らしを求めて貪欲にさらなる何かを追い求めている。
その先に何があるんだろうか。
薪ストーブを使ってみてつくづく思ったが、これこそが「不便益」というものなんじゃないか。
不便益とは、不便な中に魅力や素晴らしさやプラスになるもの(益)を見出だす考え方だ。不便でよかったこと。本当は意外と多いのではないだろうか。
便利すぎるためにかえって魅力を失ってしまったもの、ないだろうか。
僕の場合、真っ先に思い浮かぶのが、音楽だ。mp3という画期的な(本当に画期的だと思った)音楽の保存法方により、何千曲もの音楽が掌に納まる。もはや、好きな場所、好きな時間に、好きな音楽が操作ひとつで聴き放題。
それで音楽がより好きになっただろうか。
僕にとっては、答えは否だ。
便利になったせいで、1曲1曲に対する思い入れがどんどん薄れていった。
今、レコードが静かなブームだそうだが、よく分かる。これも不便益のひとつだろう。
ターンテーブルに乗せて、1曲目から聴くしかないレコードは、不便だ。正直、ジョンとヨーコの『ダブルファンタジー』をかけるときなんか、相当の覚悟がいる。
それでも、レコードは素晴らしい。
その音楽に対しておおいなる愛着を感じることができる。そして、慈しむように何度も何度も聴くようになる。ジャクソンブラウンの初期のレコードなんか、本当に素晴らしすぎて、ずっと聴いていたくなる。
先日は、雨で外の作業ができない日に、お味噌を漬けながらビリー・ジョエルのレコードを年代順に並べて聴いていた。
ビリー・ジョエルがその後のミュージシャンに与えた大きな影響をビシビシ感じた。いやはや、有名無名を問わず名曲だらけ、心底驚嘆すべき才能だ。
話が少しそれたが、薪ストーブも、この不便益を与えてくれる存在だ。いや、不便益の塊のようなものだ。
まして薪を自分で作ろうと思った日には、不便のオンパレード。しかし当たり前だが「不便」=「不幸」ではない。
むしろ、不便の先に待つのは満たされた気持ちだ。人によってはそれを「幸福」と呼ぶかもしれない。しかし「幸福」の形は人それぞれだから、そこまではなんとも言えない。
ただ自分で割った薪を燃やして得られる温もりは、満たされた気持ちをもたらしてくれる。
そしてスイッチ一つで部屋が暖まるエアコンとは比べ物にならないくらい、快適で素敵な暖かさだ。
まさに不便であるがゆえの益、不便益だ。
生きることはすべからくこの、「不便や苦労」と「満たされた気持ち」との間を行ったり来たりすることなんじゃないか、とさえ思う。
冒頭で書いた、焚き付けの時に感じる祈りにも似た感情も、そこにつながっている気がする。
そういえば、昔、ネパールのカトマンズに滞在していたとき、ホテルの窓から早朝の路地をぼんやり眺めていると 、子供が路地の角にある祠(ほこら)に向かって熱心に祈りを捧げていたことを思い出す。
朝、どこかに向かう前に、神様に祈りを捧げることが、生活の一部として暮らしと分かちがたく結び付いているのだ。それは日常的な風景であるからこそ、なおさら感動的だった。
宗教的なことを抜きにして考えたとき、僕が感じたのは、祈ることによって毎日鬱積してくる欲やエゴや、なにかそんなものを洗い落として謙虚な自分にリセットしているようなそんな作業なんじゃないかと。
お墓参りで今は亡き祖父母に話しかけるときに、どうもそんな気持ちになることがあるが、そのような祈りが日常にあるということだろう。
日本ではどうだろう。悲しいことだが、昔は、大きな飢饉が起これば、自然の猛威の前に人間はなすすべがなかった。場合によっては天に祈ることしかできなかっただろう。
そして今、僕たちは祈ってる暇さえない時代を生きているようだ。祈る暇があったら、もっと金を稼がないと。もっと贅沢をしないと。もっとSNSを充実させないと。
ニーチェが言った「神は死んだ」と。
でも、それはキリスト教とそこにまとわりつく人間のおぞましさに対しての言葉だろう。
万物森羅万象に、人間の浅はかな叡知を軽く凌駕する何かがある気がする。
いや、あるかないかは別として、自分が万能だと感じたとき、謙虚さを失ったとき、歯車が狂うのだろう。
そのようなとき、祈る、というシンプル極まりない行動が意外と真実に一番近いんじゃないか、と、薪ストーブに火を着けながら思ったりするわけです。
つまり何が言いたいかというと、薪ストーブの炎は人を哲学者にするということだ(笑)。
今日も僕は薪ストーブの炎を見ながら、小さな祈りを捧げている。