薪ストーブクロニクル

食とエネルギーの自給を目指して

誰かの思惑になんて踊らされるなよな

全てのものごとには誰かの思惑が隠れている。

テレビにおけるニュースのチョイスやコメント一つとっても、巨大な企業の思惑を無視することはできない。

戦争だって、ほとんど思惑の塊のようなものだ。ただ単にお金儲けの手段に人殺しを利用しているにすぎない。

気候変動すら、そこには思惑が見え隠れてしているかに思える。

 

しかし、全ては浅はかで、豆粒のようなものにすぎない。

思惑のほとんどは金儲けに帰着する。

金儲けの行き着く先は、遅かれ早かれ、そしてどれだけ美辞麗句で覆い隠したとしても、やがてエントロピーが増大して破滅に至るだけだ。

これってたぶん、それなりにきちんと歴史を勉強したら誰でも分かることなんじゃないかと、偉そうにもおもっちまうわけで。

 

さて、そんな思惑にまみれ、思惑で溢れかえったこの世界にも、誰の思惑とも無縁の物が存在している。

その一つが薪ストーブの炎だ(ってやたら大袈裟な事を散々並べといて、それが言いたかったのかい)。

 

薪ストーブの炎の形は、融通無碍だ。

誰の思惑に縛られることもなく、そのときの薪と空気の加減に応じつつ、それに縛られることもなく、自由に形を変えていく。

 

空に浮かぶ雲のようだ。

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今日の空は春霞か。雲の占める割合も多い。

 

またある日の空にはマグリットが描いたようなちょっと変な形の雲。

その春の呆れるくらい青い空に幾何学的な線を引いては消えていくボーイングエアバス

鳥があちこちで鳴き、山の緑の中に絵の具が飛び散ったようにピンク色の山桜が点在している。

 

薪ストーブの世界は、もちろん人為的な、そして工業的な側面も多分にあるんだけど、それでも、薪を集めて割るという極めて原始的な作業も、その炎の移ろいも、なんとなく融通無碍な世界に通じている気がする。

誰の思惑とも関係なく、ただ自分の部屋を暖めるというささやかすぎる目的のためにひたすら汗をかき、労働する。

鳥が巣を作ったり、蜂が花の蜜を集めるのと変わらない、シンプルな活動だ。

自分が一寸の虫になったかのような、仏教的な境地。

もちろん、雑念だらけの僕にはまだまだ遠い道のりだけど、それでも、そんな仏教的な、ニルバーナ的な境地に少し通じるような気がする薪作りのそんなところに、尽きせぬ魅力を感じる。

 

誰かの思惑のために、誰かの金儲けのために踊らされて、スポイルされる人生を送るくらいなら歯を全部抜いた方がましだ、っていう歌が昔ありましたね(笑)。

 

さ、今日も帰って薪を割ろうっと。