薪ストーブカンブリア紀⑧ 便利さの感動は続かない
週末まで怒涛の仕事が入っていて、先週の日曜以来久しぶりの休みだ。
働きすぎだ。
働き方改革は我が身にまでは及んでいないようだ。
最低でも週休3日は欲しいところだが、贅沢も言えない。
さて、そんなわけで、平和な日曜日。
昨日の夜にあらかた薪を使い切ってしまったので、室内の薪の備蓄がなくなった。
見事にあと一本、頼りなげな雑木の薪があるだけだ。焚き付けも心細い。
今日はまず室内への薪運びをしよう。
ところで、最近つくづく思うのだが、薪ストーブで暖をとる、という暮らし方も3年目。だんだん慣れてきたと言っていいだろう。
それでも、薪を焚いて、部屋の中に火がある暮らしの感動はなかなか薄れない。
もちろん、感動の形は違うんだけど、それでも、夕方に寒くなってきてストーブに火を入れるときは、何かしら満たされた気持ちになり、何かしらの手応えのようなもの、生きている実感のようなものをいまだに感じる。
これは一体なんだろう。
一方で、便利さの感動は長続きしない。
少し前、テレビが地デジに切り替わって、古いアナログのテレビが観られなくなるということがあった。
地デジの画像は今までのアナログテレビとは比べ物にならないくらい高画質で、それは素人の目にも明らかだった。
驚くべき美しさの画面、場合によっては見なくていいものまで映り込むほどの高画質な画面に、しかしながらあっという間に慣れてしまい、すぐに何も感じなくなった。
日々驚異的に進歩する身の回りの科学技術も、あっという間に慣れる。
やはり、便利さの感動は長続きしないようだ。
翻って、薪ストーブだ。
どうして、火を焚く度にしみじみ感動するのか。おそらく、ストーブの暖かさの代償をきちんと払っているからだと思う。
原木を集めてくる。薪を割る。積み上げる。
乾燥させる。家の中に運び込む。
焚き付けを組んでマッチで火を着ける。
それは、薪ストーブの素晴らしい暖かさを享受するにふさわしい、人間らしくて地に足のついた労働の対価と言えないだろうか。
お金で媒介される中で物事の本質が曖昧にされがちな資本主義の原理が入り込めない、原始的な価値観がある。
畑で育てた野菜を食べたり、山で仕留めた鹿を食べたりするのと同じ、極めてプリミティブな営みだ。
おそらくこれからも、薪を焚く度に、何かしらの手応え、感動という言葉は正確ではないかも知れないが、感動と似たような気持ちを抱き続けると思う。
世界は見るからに混乱している。
最近、ロシアのプーチンにオリバーストーンがインタビューした本を読んだ。
プーチンの発言が全て正しいかどうかは別にして、いかに自分が西側諸国に都合の良い理屈だけで様々な事を判断していたかを痛感させられた。
分かっていたはずだけど、あらゆる立場にはその立場なりの正しさがある。
アメリカにとっては、プーチンは独裁者でないと都合が悪いし、ロシアは何か良からぬ事を企んでいるように見えないと困るのだ。
多角的な視野を持つ事ができるという意味で、必読の書だと思う。
国際政治の混乱の原因がよく分かる本だ。
そう、世界は混乱している。
新型肺炎のパンデミックだって、色んなことの結果として出てきたものだ。
もはや何も不思議はない。
こんな時に自分にできる正しいことは何だろうか。
まあ、まずは薪を割ることか。
なるべき地に足を着けていよう。
日々の暮らしこそが全てだ。お金だけじゃ家族は守れない時代がすぐそこまで来ている。
今、我が家の土場にはこれだけの玉が転がってる。
雑木はかなり割り終えて、ほとんどが杉とヒノキ。あとは樫が少し残っているだけだ。
この巨大ヒノキ玉の上に、割り終わりの最後ケヤキの薪が乗せてある。
ケヤキの薪割りには苦労したが、それでもなるべく無節のものを選んで持って帰ってきたので、なんとか全て薪にする事ができた。
節がキツいものは足掻いても割れない。
これらの薪割りと並行して、今日は天気がいいので薪棚の補修にも手をつけようと思っている。
良い一日になりそうだ。