薪ストーブ始生代100 そろそろシーズンが終わる。
去年の6月のこと。
薪ストーブが設置されたのが嬉しくて、寒くもないのに昼間から焚いていた。
↑去年の6月の証拠写真。白猫のミケリアはまだ覚醒前。目やにもとれてなくてまだブチャイクだ。
その後、さすがに真夏は焚かなかったが、9月になると気温が20℃を下回る日も出てきて、ちょっと肌寒いという理由で焚き始めた。
薪ストーブユーザーの先輩から聞く話によると、寒い季節が来て、それが何月であろうとも、一度焚いてしまってその暖かさを身体が思い出してしまうと、もう後戻りできないらしい。
つまり、その年の秋に(もしくは冬に)一度でも焚くと、そこから先は、少しでも寒いと感じたら焚かずにはいられない、ということだ。
だから、薪を節約するためにはその初焚きの日をどこまで遅く引き伸ばせるかが勝負なのだそうだ。
薪が潤沢にあるところでは一切関係ない話だろうが、多くの薪ストーブユーザーにとって薪の確保は切実な問題だ。
お金に余裕があったとしても、2年乾燥したコナラの薪をジャンジャン注文するのはなかなかに勇気のいることだし、原木で購入して安く済ませても、自分で割った薪は愛しいものだ。
まさに薪は誰にとっても「いとしいしと」なのであって、残り少ない薪を滅びの山の火口ならぬ薪ストーブの炉内に放り込むのは、それ相応の覚悟がいるのだ。
その年その年で、色々と事情が変わってくるだろう。
早くから寒波がやって来る年、薪に余裕があって気持ちが大きくなっている年、焚きたいのに薪が乏しくて焚けない年。
しかしいつか初焚きの日はやってくる。
というか、秋が来ると、その事ばかり考えてしまう。
去年は、つまり今シーズンは9月に初焚きをしてしまい、それからは寒い日が来ると焚いていた。
そして12月から2月までの3ヶ月間は基本的に毎日焚いた。
3月になって週に1回、2回、と焚かない日も出てきて、先週あたりから焚かない日の方が多くなり、そしてここ3日ほどは全く焚いていない。
焚かなくていいほど暖かいのかというと、朝晩はやはり肌寒い。
でも厚着をすれば普通に過ごせる。
とうか、薪ストーブがなかった頃は普通に過ごせていた気温だ。
そして、もちろん切実な事情がある。
去年の秋以降、かなりの量の薪を入手した。
しかしそれらはまだまだ乾いていない。そして、焚けるくらいまで乾燥した薪はもはや底をつきかけている。
最後の最後でケヤキの薪が活躍してくれたが、それとてもはやあとわずか。
つまり焚きたくても焚けないのだ。
もちろん、お金を出せば薪は買える。
それは全然悪いことじゃない。
悪いことじゃないけど、僕は食とエネルギーの自給を目指して暮らしているので、自分で調達できるものはなるべくお金を出さずに暮らすというルールを自分達に課しているのだ。
それは、高尚な理念や崇高な地球環境への憂慮というよりも、楽しく充実した毎日を送るためのルールだ。
薪に直接お金を出さずに自分たちで調達するには、コミュニケーションを駆使して誰かからもらうか、山から木を伐り出して身体を動かして薪にするか、その両方を利用して集めたり割ったりするか、いずれにせよ面倒だし、頭も身体も使う。
しかしまあ慣れてくれば、コミュニケーションは楽しくなってくるし、身体を動かすことは大切でもあり、充実感もある。
そもそも人間は太古の昔と比べて、暮らしはとんでもなく変わったけど、遺伝子的にはほとんど変わっていないらしい。
つまり、身体を毎日しっかり動かすことでバランスが保たれるようにできている。
スマートフォンがあれば、身体を動かさなくてもあらゆるものが手に入るけど、健康は手に入らないのだ。
だから、無理はしないけど、毎日身体を動かして暮らすことを基本とする。身体を動かして色んなものを作り出す暮らし。薪作りや野菜作りは人間の暮らしにとってデフォルトであるように思うのだ。
その中で、当たり前の健康が維持される。
一見不便なんだけど、楽をしようとしても後できっとその代償を払うことになるのだろうから、不便を楽しんで健康で充実した毎日が送れたら、それって悪くないと思いませんか。
だから、今日もせっせと薪を割る。
今年は薪がほんの少し足りなかった。
もしくは寒くない日に無駄に焚きすぎた(笑)。
来年は薪に困らないように。
寒い日に、たっぷりの薪で部屋中がポカポカになるように。
猫たちがストーブの前でぐっすり眠れて、奥さんの足の冷えがなくなるように。
薪ストーブシーズンが終わろうとする今、そんなことを考えている。