薪割りとともに2ヶ月
ブログを始めてから2ヶ月が経過した。
一応、毎日更新することを自分に課して、空いた時間を利用してちょこちょこ書いてきたが、はじめのうちは、いつネタが切れるか、そればかり心配していた。それで記事の内容をぶつ切りにして、連載っぽく書いたり、どうでもいい内容でお茶を濁したり(それは今もやっているが)。
しかし、最近はなんとなく書けるようになってきた。とにかく週末はひたすら薪割りしたり、木を集めたり、そんなことをして過ごしていたので、それに付随する色んなことをとりあえず書いてきたが、そもそもこのブログはどういう意図を持って始めたのか?ということを書いてみる。
現代社会は働きすぎなんじゃないか
そんな疑問が出発点だ。もちろん「勤勉がダメだ」なんて安易なことを言うつもりはない。真面目に働くことはすごく素晴らしいことだ。ただ、みんな賃金労働ばっかりし過ぎなんじゃないのか、と思ったわけだ。もちろん主婦が子育てや家事をするのは、賃金労働ではない。ただ、それだけじゃなくて、生業(なりわい)と呼べるような、生きることに直結する仕事を私たちはほとんどしなくなったんじゃないか、と。
薪ストーブに引き寄せて書けば、薪割りが分かりやすい。薪を割って自分が使うエネルギーを作り出す、これはまさしく生業だ。木を切り出して薪にして乾燥させないと、熱い風呂に入ったり、煮炊きができないからだ。もちろん言うまでもなく暖房も。
そして自分で食糧を作ることもしなくなった。野菜や米を自給できている人なんてほとんどいなくなってしまった。
着る服だって、昔は自分で作っていたのに、最近縫い針に糸を通したことがある人なんてどれだけいるだろう?
その代わりにみんな、金を稼ぐ。
金を稼いで、灯油を買って、スーパーで食品を買って、ユニクロで服を買う。
それがダメだと思わない。でも、自分はもっと生きる力、自分で作り出す力をつけて暮らしたいと思った。その一番身近にあったのが、薪ストーブであり農業だった。
このブログで、薪ストーブ暮らしと、農業生活を綴りながら、最終的には食とエネルギーを完全に自給することを目指してみる。そしてそのためにもうひとつ欠かせないのが、人間関係の自給だ。全ての事を自分で背負うのではなく、色んな人との金を介さない付き合いを通じて助け合い、補完しあえば、自分で全て作らなくても、生きていける。
ビル・トッテンという人が言っている。「週休4日、給料6割の暮らし」が、おすすめだと。悪くない。生業を作っていくのに最も大切なことは、時間を作り出すことだからだ。給料が半分に減っても幸せに暮らせるはずだ、という確信のもと、もうすぐ出勤日数を週3~4日に減らしてみる。
そして作った時間を、生きることに充填するのだ。
これからその生活が始まる。薪割りはほんの序章に過ぎない。
村上春樹氏が奇しくも書いている。お金で買える最も素晴らしいものは時間と自由である、と。
その分なら、お金を稼ぐ代わりに自由な時間を持つことは、本質的にはお金で時間と自由を買っていることになるのではないだろうか?
何も、大金持ちだけがお金で時間と自由を買えるのではないだろう。
これはミヒャエルエンデのモモという物語にも通じることだが、長くなってきたので、エンデについてはまた別の機会に譲るとしよう。
四月。ちょうど桜が満開だった。
賃金労働を減らして時間と自由を手にした僕たちに、これからどんな未来が待っているだろうか。
乞うご期待!