薪ストーブ始生代④薪ストーブに求めるもの③~薪、自分でエネルギーを作る手応え
薪ストーブは寒い冬に使うものだと思うけど、薪ストーブユーザーは春が来て暖かくなっても、また、暑い夏でも薪ストーブのことを考えていたりする。特に今の季節は、この冬の薪は足りるだろうか、なんて考えたりするのではないだろうか。
実際、僕の職場の先輩も、
「そろそろマジで今年の薪を割らないとヤバイわ」
なんて言っている。
いやいや、先輩、今から割ったらちょっと遅くないですか?
去年の冬も
「薪が乾いてないから全然燃えないんだよ」
みたいにぼやいてたぢゃないですか。
日々忙しいと、気が付いたらまだ割っていなかった、なんてことになるかもしれない。もちろん自戒を込めて書いている。
ただ、今はまだ薪ストーブ一年生。僕の薪ストーブライフは始生代(地球の歴史が始まった年代)に入ったばかりだ。
薪割りひとつとっても、楽しくて仕方がない。
色んな所から少しずつ木を貰ってくるのだが、あっという間に割ってしまっては、次の木が欲しいなぁ、割りやすい広葉樹ならなおのこといいなぁ、などと甘言妄言を繰り返す毎日だ、よく分からんけど・・。
さて、何の話だったかというと、薪ストーブに求めること、というテーマで、実際に本格的なシーズンが始まる前に自分なりに考えていること、求めていることをまとめている。
今回は薪について。
薪ストーブの導入に二の足を踏む人の話を聞くと、やはり薪の確保が大変そう、もしくはお金がかかりそう、というのが定番の理由だ。
確かに薪割りは重労働だし、理想的な2年乾燥薪をすべて購入していたら、ひと冬10万円や20万円という単位で薪代がかかってくるだろう(それが高いかどうかというのは、また別の議論だが)。
お金を払って薪を買うのが嫌なら、自分で調達しなければいけない。これは住んでいる場所の環境にもよるが、都会で薪調達は確かに至難の技かもしれないが、田舎に暮らしていれば、なんとかなるはずだ。
そして、僕にとって薪ストーブが魅力的なのは、この「薪は自分で調達しなければいけない」という原則が、「薪を、つまりエネルギーを自分で作り出せる」という言葉に置き換えられるからなのだ。
エネルギーを自分で作り出せる。
なんという魅力的な響きだろう。
もちろん、薪を作ることに関わる工程の全てを、自分の力だけで行えるわけではない。立ち木を伐るチェーンソーは自分で作れるわけがないし、オイルの類いも購入する。
薪割り斧だって、今は素晴らしい斧を簡単に購入することができるが、自作することは困難だろう。
もっと言えば、そもそも薪になる木を育てる太陽エネルギーがなければ、薪作りはスタートラインにすら立てない。
なんとも他力本願なエネルギーの自給自足で恐縮だ。しかし、少なくとも、ある程度の準備が整えば、中東からエッチラオッチラ運ばれてくる石油や、原発に無理矢理依存した電力会社からの電力に頼らずとも、部屋をばっちり温められる、というは、やはり魅力的だというしかない。
梅干しや味噌を自分で作っていてつくづく思うのだが、昔から伝わる作り方、昔からの智恵というのは伊達じゃない。
科学技術がそれを凌駕したかのように、昔のやり方が消えつつあるが、実は科学技術による代用はハリボテというか張り子の虎というか、全然代用できていないし、凌駕するなんてとんでもない。ご先祖様たちが本当に長い時間をかけて温めてきた智恵の足元にも及んでいないと思う。
味噌にしても梅干しにしても、手作りは面倒くさいけど、本物がもつ美味しさは、全く別物だと感じている。
薪エネルギーも、しかりだ。
石油ヒーターやエアコンなどのポッと出の新参者に乗っ取られて、薪暖房はほぼ消えかけている。しかし、薪で作り出される熱は、石油や電気で作るものとは根本的に別次元だと思う。
これは、少し前にも書いたけれど、薪で焚いた風呂に入った原体験を根拠にしている。
薪ストーブ(でもペチカでも暖炉でもメイスンリーヒーターでもいいけど)でひと冬を越すのは始めてなので、こんなに自信満々に書いてもいいものかどうか分からない。
ただ、もうすぐその答えは出る。楽しみだ。
話が脱線したが、はるか昔から日本人が当たり前のように利用してきた薪エネルギーを自分で作り出せるということ、そこに薪ストーブの真髄があると思う。
遺伝子的に組み込まれた、薪を割り、利用することに対する、根源的な欲求(なんと大袈裟な(笑))。
そうでなければ、薪割りがあんなに楽しいはずはないし、薪棚をみてあんなに気持ちが昂ることの説明がつかない。
とかなんとか書いているが、やがて身体が衰えれば、薪は割りだって困難になるだろう。
まあ、そのときはそのとき。
そうなったときにあらためて考えるとこにしよう(笑)。