薪ストーブシルル紀③ 真夏の亡霊
薪ストーブを導入して5回目の冬が終わって、無事、煙突の掃除も完了した。
春に頸椎のヘルニアを発症したために、首に負担のかかる薪割りはもう4ヶ月ほどしていない。
こんなに薪割りをサボったのは、今の生活になってから初めての事だ。
つい最近、よくお世話になっていた薪ストーブブログで久しぶりに更新されていた記事を読んでショックを受けたのだが(とても有名なブログなので紹介は省く)、いつ、どんなことが起きるか分からない。そして、いつ薪割りができなくなるか分からない、というのは非常に現実的な事なのだと、自分の事を重ねて読んでしまった。
僕のヘルニアは4ヶ月ほど安静に過ごしていてかなり状態はよくなっている。
この夏にはそろそろ薪割りを再開したいと思って、手慣らしの雑木も持って帰ってきている。
15センチぐらいまでの、比較的小ぶりなミズナラだ。
最近、一つだけ割ってみた。
あーこんな感じだった。
なんとも懐かしい感触だ。
薪ストーブライフを始めたとき、薪作りは全て手割りというのを当たり前と思って疑わなかった。
薪割りどころか、斧を持つ気にさえならないような身体の状態になるとは、考えもしなかった。
幸い、ヘルニアは手術をすることもなく快方に向かいつつあるので、まだこの先の人生で薪割りをすることはできそうだ。
そして、それはいつまでできるか分からないという、当たり前で冷徹な事実を伴った現実だ。
首や肩の痛みと左手の消えない痺れを重くリアルにこの身に感じながら、本当に、もう一生斧で薪割りをすることは叶わないかもしれない、薪割り機について調べることになるのかと、数か月の間、真剣に考えていたのだ。
結局、人間は頭ではいくらでも予想図を作り上げられたとしても、未来には生きられない。
現在に集中することしかできないんだと、改めて思い知らされた。
現在に集中して一心不乱に薪割りをすることしかやりようがない。
その時できた薪が数年後の自分達を暖めることになるとしても、それは現在の積み重ねの結果でしかなく、人間の営み自体が突き詰めれば、「いま」しかないのだ。
未来において、薪は残るかもしれないが肉体が滅びているかもしれない。
肉体は残っているが、薪は使えないままなくなっているかもしれない。
肉体が残っていても、精神は残っていないかもしれない。
結局、いま、例えば薪割りをできることに目一杯フォーカスして生きるしかない。
と、まあ、身体の不調は暗い妄想を育んで色々と考えてしまうものであり、身体が復活したときは、普段ならあり得ないほど、身体が動くことに感謝をしてしまうというのも、俗物的ではあるが、毎度のことだ。
いやー、久しぶりにどうでもいいことを沢山書いたな。
世界は一瞬たりとも同じ状態にはない。
もちろん自分自身もそうだ。
自分自身が老いて、やがて薪割りができなくなる日が来るように、世界も老いていく。
厳密に言うと、今のこの世界を回しているシステムが老いていくと言うべきだな。
ハイテク通信満載でピカピカの最新モデルにみえる世界の有り様だけど、実は間違いなく老朽化している。
そしてそのシステムの不備が、気候変動やら一部の国の食料危機やらパンデミックやら色んなところで起こる問題として噴出してるわけだけど、ついにウクライナで侵略戦争まで起こってしまった。
このあとは、どんな悲惨な事が起こるのか分からないけど、もしも今の世界が完成されたスマートなシステムであれば、この危機を乗り切ってより良い世界を作れるかもしれない。
しかしながら老いて古びた、今の世界は、この危機を乗り越えられず、温暖化も止められず、さらに悲惨な事が世界規模で起こる。残念だけど、断言できてしまう。
だから、と言うべきか、やっぱり、今現在にフォーカスして暮らすのが重要だと思う。
薪割りをできるうちは、目一杯薪割りを楽しもう。
願わくは、薪割りや自分で食べ物を作り育てる本来の生き物の暮らしが価値あるものとして認識される世界が来ることを祈りつつ。
しかし、その未来に心を奪われず、目一杯の薪割りに集中できる強い心を持ちたいものだ。
この暑い夏を乗り切れば、6度目の薪ストーブシーズンがやってくる。
38℃に迫ろうという猛暑の中で思うことでもないが、やはり薪ストーブシーズンが来るのは待ち遠しいね。