薪ストーブカンブリア紀⑬ 金なんてなくても生きていくさ
まだ世界がこうなるずっと前、徳島を旅行したことがあった。
アレックス・カーの「ちいおり」という古民家を探して険しい山道を車であちこちさまよっていた。
道々の民家にはかなりの確率で薪が積み上げられていた。そこに暮らす人々は、いまでも当たり前のように薪で風呂を焚いているのだ。
伐り出してきた木材をヨキで割り、当たり前のようにエネルギーとして使う暮らし。
連綿と続いてきた、山と共生する暮らし。
僕のような軟弱な薪ストーブユーザーにはまだまだ及びもつかない、達観した境地。
ふとした瞬間に脳裏に浮かぶのは、徳島の山中で何度も見かけた飾り気がなくて暮らしに根差した美しい薪棚だ。
さて。
世界はこうなってしまった。
説明は不要だろう。
世界はもうこんなことになってしまったのだ。
歴史を振り返ると誰でも分かるように、人類に制御不能なあまりにも巨大な出来事が起きることがあって、そんなことがあると、もう二度と元通りにはならないことだってある。
おそらく東日本大震災と、それに続いた原発事故も、本当は二度と元に戻せない大きな出来事だったはずだ。
でも、我々は元の生活を取り戻したフリをして暮らしてきた。
そのツケはどんどん大きくなっている。
そんな中で今回のアレが起きたわけだ。
二度と元に暮らしには戻せないだろうし、もはや元に戻してはいけないんじゃなかろうか。
そもそも、不必要なまでに発達したテクノロジーとともに沈没していくだけの世界に戻す必要なんてあるだろうか。
我々が目指すべきは、全く違った世界じゃないだろうか。
今回の出来事がいいきっかけになった、などと寝ぼけたことを言うつもりはない。
混じりっけ無しの悲劇だ。
でも、制御もできていないうちから、金のこと、経済のことばかり心配しているなんて、恐ろしいまでにバカバカしい茶番だ。
金がなくては暮らせない?
シャンプーがないと頭が洗えない?
灯りがないと夜を過ごせない?
まさか。
ないなら、ないなりに暮らすしかなかろう。
金がないならどうやって暮らせばいいだろう。
まず、食べ物を確保しよう。
スーパーで買いだめしたいところだけど、金なしでスーパーに行ってもできることと言ったら、試食コーナーで食べまくるか万引きくらいしかない。
なんとか別の方法で調達しよう。
野菜は畑で作ればいい。
畑がない暮らしなんて、これから目指すべき新しい世界では考えられないはずだ…知らんけど。
野菜や穀物は田畑で作ればいい。
それはいいとして、肉はどうする?
肉も自分で調達するしかあるまい。
とは言え、いまのところ独力で鹿やイノシシを捕まえることはできないので、知り合いの猟師さんに、物々交換的に譲ってもらったのが今回の鹿肉だ。
物々交換的、というのは、正確には鹿肉の対価ではないけど、折りにふれて色々できたものを差し上げて、代わりに肉をいただいている、という意味。
味噌やタクアン、自家製マスクなどをお礼として渡している。
さて、今回はモモと背ロースをボンといただいたので、まとまりごとに切り分けて保存することにした。
冷凍保存している分もあるが、常温で備蓄できるに越したことはないので、鹿肉ジャーキーにする。
この塊をさばこう。
狩猟用にも使えるレンジャーナイフを使って。
猫が真剣に見つめる中での作業だ(笑)。
薄く切りわけていく。
それを網に乗せて、ストーブで一晩乾燥させる。
以前、猪肉でも作ったのだが、脂身の少ない鹿肉の方が簡単に作れるし、人間も犬も食べやすかった。
カリカリになったらジップロックにでも入れて、保管して棚に置いておく。
貴重なタンパク源の鹿の干し肉。
細かく砕いてペペロンチーノなんかに加えても、結構美味しかった。
もちろんベーコンの方が美味しいけど、金なしでベーコンを手に入れるのはかなりハードルが高いので、鹿肉を食べる。
野山に出て自分で仕留めるところまで行くのは、まだまだ厳しいけど、猟師さんが仕留めた鹿やイノシシを自分で解体できるようには、近いうちになる予定だ。
なにせ、害獣として駆除されている鹿は、そのほとんどが食べられることもなく捨てられているのだから。
もちろん、その捨てられた肉を別の鳥獣が食べるのだから、無駄になるわけではないんだけど。
さて、獣の話はこれぐらいにしよう。
ストーブの熾を利用してうちの奥さんがプリンを作る。
肌寒い朝に薪ストーブを着けて仕事に出かけると、その熾を利用してプリンやチーズケーキが焼かれるというシステムになっている。
今年は何度もプリンが作られたが、最後になって、スの入らない理想的なプリンができた。
プリンも贅沢品だな、しかし。
金なしで作るとなれば、鶏とヤギを飼わないとね。
我々が目指すべき世界では、家の敷地を一歩も出なくて、やることだらけで忙しいぞ(笑)。
オブグリッド入門⑦ コロナ騒動が突きつけるもの。そして柿酢が完成。
コロナウイルスがこれからどうなるのか、それは誰にも分からない。
そもそもきゃつは一体何者だ。
よく分からないことがパニックを助長しているのは事実だろう。
でも、スペイン風邪のように突然ウイルスが変異して、致死率が上がれば、パニックごっこではすまない本当に危険な状況になることだって充分ありえる。
要は、先行きなんて誰にも分からないのだ。
封じ込められたらしめしめ。
オリンピックでまたひと稼ぎできる人たちがほくそ笑むだろう。
はたまた、危険のギアが一つ上がって、日本中が武漢状態になる可能性だってまだまだあり得る。
よくわからない事だらけの現状だけど、ひとつだけ確かな事がある。
それは、ウイルスで外出ができなくなっても、経済活動が止まってしまっても、流通や物流がストップしても、田舎で自給的な暮らしをしている人なら、普段通りの暮らしができるということだ。
もちろん、田舎で暮らしていても他の人との交流はいくらでもある。
でも、自分の畑で採れたものを食べ、自分で作った薪やエネルギーを利用した、自立した暮らしなら、籠城生活も単なる日常に過ぎない。
効率を求めて究極の分業が進んだ社会に暮らす我々は、そう簡単に社会システムから自由にはなれないだろう。いやはや、なんの疑問も抱かずに暮らすこの社会のなんと不自然なこと。
それがなくなったら人生おしまいか?という勢いで世界中のスーパーの棚からトイレットペーパーが消えていく。
なくなったら仕方がない。
新聞紙で拭くさ。
でも、昔の百姓は、あらゆることを自分でこなしていた。衣食住、なんだって自給できた。
お金があってもマスクもトイレットペーパーも手に入らないことだってありえる。
当たり前だけど、金は万能じゃないということだ。
我々は最も大切な事を他人任せにしてしまってるんじゃないか。
今回のコロナ騒動もまた、そのことを僕たちに突きつけている。一体何回こんなことを突きつけられたら、目が覚めるんだろう。
封じ込めに成功したら、また元のシステムでやっていくつもりなんだろうけど。
本当に引き返せないもんだろうか。
やれやれ。
そんな中、我が家でまたひとつ、自分の手で作り出せる物が増えた。
もちろん我が家もまだまだ、システムというやつとすっぱり手を切れないでいる。
電気の自給はもう少し先になりそうだし、食べ物の自給自足だってまだまだ道半ばだ。
しかし、ひとつひとつ、楽しみながら自分の手で色んなものを作り出していく過程は、人生の醍醐味としか言いようがない。
今回作ったのは「酢」だ。
原料は柿。
日本中で実る柿。
最も簡単なお酢づくり。
潰して放置して、時々混ぜるだけ。
甘柿でも渋柿でも作れる。
栄養的には、柿と酢の両方を兼ね備えている。
味はまろやかで、ツーンという刺激はマイルド。
そんな最高の調味料が完成した。
絞って、濾してできあがりだ。
まずは絞る。
そして濾す。
消毒が不要なので、洗っていないお酒の瓶に詰める。
できた。
数年熟成させた方が美味しくなるらしい。
我が家は酢の消費量が多いのでそこまで残っているかわからないけど、スダチ酢や柚子酢もあるので、併用しつつ大切に使っていきたい。
完成祝いに、薪ストーブの天板でたい焼きを焼いて食べた。
カリッと焼けて美味しかった。
薪ストーブカンブリア紀⑫ コナラの巨原木との格闘・後編
前回からの続きだ。
土砂降りの中、コナラを回収に出かけて、うちの奥さんは腰をやられながらも、なんとか持ち帰ったコナラ。
その量軽トラに二台分。
玉切りが面倒だ、というよりは、40センチほどに玉切りしないと持ち運べないくらい巨大な楢だったので、持ち帰った段階でいつでも薪割りスタンバイOKな状態だった。
ちょうど薪棚2号機の前列が空になっていたのでそこに並べればいいや、と思い、おもむろに割り始めた。
↑これ、そのコナラの薪割り風景。
その前に節だらけの杉を大量に割っていたので、薪割り場が、ゴチャゴチャしている。
まあ、そんなコンディションの悪い中で、薪割りスタートだ。良い子は真似しちゃだめだぞ。
まずはこの玉。
直径20センチ弱か。
ど真ん中を一刀両断。
さらに割って、
頃合いの中割りが4本できた。
続いてこいつ。
直径30センチに及ぼうかというなかなかのブツだ。
まず第一刀。
すこし筋が入った。
続いて第二刀。
よし、玉のサイドにも割れ筋が走ったぞ。
これで、いけるはず。
とどめの第三刀!
バッカーーン。
きれいに真っ二つ。
これぞコナラの手応えだ。
その後、律儀に割っていって、このひと玉で14本のやや小ぶりな中割りになった。
うむ、よしよし。
さて、お次は直径40センチオーバーのこいつ。
薪割り台をはみ出すその巨体。
こいつはど真ん中に5、6回、フィスカースのハンマー斧を打ち込んだが歯が立たず。
すこし捻くれた筋なのかも。
とにかく、そういう時は端から攻める。
端っこを削るだけでも、中割りがどんどんできていく。
どんどん削る。
削る。
ここまできたら、もう真ん中をいけるだろう。
苦労して割り終えた。
このひと玉は大満足の中割り19本になった。
そんなこんなで2週間かけて、コナラの玉をすべて割り終えた。
薪割り場に残っているのは、やや乾燥過多の大玉のヒノキだけだ。
そして予定通り、薪棚2号機には今回割ったコナラが綺麗に埋まった。
笑えるくらいぴったりの量だったぞ。
あー、楽しかった。
薪ストーブカンブリア紀⑪ コナラの巨原木との格闘・前編
「コナラを伐倒したけど、要る?」
と、知人から聞かれた。
この時点で詳しい話も聞かずに断るとしたら、その人は薪ストーブユーザーではないか、もしくはコナラアレルギーの人だろう。
もちろん、その倒れてるコナラが山の上にあって相当の距離を人力で運び降ろさないといけない、とかそういう話なら、泣く泣く諦めもするかもしれない。
しかし、今回倒したコナラは、道側らしい。
軽トラでかなり近くまで肉薄できるようだ。
この情報が伝わった時点で、ほぼ全ての薪ストーブユーザーが、
「あざっす!いただきっす!!」
と答えて、そのコナラを頂戴することになるだろう。
ただし、そのコナラ、かなりの巨木らしい。
まあ、そんなわけで、当然のように伐倒現場へ行きますわな。
巨木ということで、18インチ(45センチ)のバーのチェーンソーと14インチ(35センチ)のものと、念のため二台持参して到着。
さて、その巨木。
いくらなんでも巨木すぎた(涙)。
この画像で、右側に転がっている小さそうな玉切りされたコナラ。
こいつらでさえ、人力で運ぶならかなり重さを感じる直径20〜30センチの玉だ。
いわゆる枝分かれのした細くなった幹でもこのサイズ。
伐倒された一番太い幹、いわゆる一番玉はゆうに70センチ越えだ。
しかも完全に接地していて全く隙間がない。
こいつは玉切りするにしても重機がいるレベルだぞ。
とりあえずこの太すぎる一番玉は置いておいて、比較的御し易い細めの枝を玉切りする。
細めと言っても30センチは下らない。
チビてきたソーチェーンで、悪戦苦闘しながら接地して切りづらいブツを刻んでいく。
せっせと玉切りし続けては、一段下の軽トラが停めてある場所まで運ぶ。
頃合いのサイズのソヨゴも少し貰ってきた。
とりあえず、軽トラ一台分作れたので、家まで運び込む。
一台目の成果が、これだ。
すこし荷台に不安のあるうちのアクティトラックでは、ちょっと積みすぎか。
さて、続いて2台目の薪を取りに行く。
この頃から雨が降ってきて、はっきり言ってコンディションは最悪になってきた。
ので、写真は撮っていないが、二台目に選んだのは、少し前に倒されて枯れ始めていた、少しサイズの小さいコナラ。
しかし、これとて元玉は直径50センチオーバー。
なんとか宙に浮いた状態だったので、切れるところからどんどん切っていった。
そして、土砂降りになってきたので、とりあえず積み込んでそのまま現場を後にする。
ちなみに運び込む途中で少し負傷者が出た。
軽トラの荷台まで持ち上げるのが重すぎて、うちの奥さんが腰を少し痛めたのだ。
もう少し軽いものを持って貰えばよかったんだけど、最後はクソ重い玉しか残っていなくて、玉切りと並行して作業するときに無理をさせてしまったみたいなのだ。
ここまで犠牲を払ったんだから、ちゃんと割れてくれよー。と祈りつつ現場を後にした。
そんな二台目の成果がこれだ。
極太だし、少し変に捻れていたり、かなり太い節があったり。
なかなか割るのが厳しそうだ。
しかし放置しておいてはどんどん割りづらくなってしまう。
こいつらを斧でどう料理していくか。そもそも割れるのか。
巨大コナラとの格闘は後編に続く。
薪ストーブカンブリア紀⑩ 薪棚の修復・薪運び
ここのところ懸案事項だった薪棚の修復をした。
薪棚3号機と名付けたこの薪棚。
左右二層に分けて圧力を分散させる作戦だったのだが、右の方の棚が薪の重さに耐えきれずに外側に膨らんできていたのだ。
ここには小割りや焚き付け材が満載にされていて、日々使っていたが、このほど全て玄関前に移動させたので、晴れて空っぽになった。
薪棚の底には、カメムシやらゴキブリやらがうようよしていてあまり気持ちのいいものではなかったので、全て掃いてきれいにした。
よく見ると、横に渡したつっかえ棒も歪んでいる。
適当に直した。
そして、貰い物の角材をラティス状に打ち付ける。
まあ、修復とか偉そうに言ってこれだけなんだけど。
これで薪棚の外側への膨らみはなくなったので、当分は大丈夫だろう。
タダで貰ったものだけで作ると、メンテナンスが大変だ(笑)
現在の薪棚1、2、3号機の様子はこんな感じ。
今は2号機(一番左側)の様々な広葉樹の薪を使っている。
さて、時間もあるし、ついでに室内の薪棚環境を整えよう。
まず、空になった薪棚周辺をきれいにする。
特に一番下は汚いまま捨て置かれるので、この機会に掃く。
そしてえっちらおっちら薪と焚き付けを補充。
はい、完了。
これでまた雪や雨で外の環境が厳しくなってもしばらくは耐えられるはずだ。
薪ストーブカンブリア紀⑨ 薪ストーブには雪景色が似合う
いやー、今年初の積雪。
最近増設した、樫専用の薪棚3号も、素敵に雪化粧。
初積雪がここまで遅いのは初めてか。
やはり薪ストーブユーザーとしては、外に雪景色が見えないとちょっと雰囲気がでない。
まあ、道はツルツルで、四駆にスタッドレスでも調子に乗っているとツルッと滑るので、決して雪がたくさん降って欲しいわけでもないが、ある程度降らないと、雪解けの水が減って春に田んぼに供給する水が足りなくなるので、やはり雪を見るとほっとする。
早速雪が大好きな我が家の犬っ子を連れて散歩に出かける。
異様なテンションで雪の中を駆け回る。
そのままどんどん森に入っていく。
おいおいそのへんにしとけよ。
道すがらには、雪を被ったシュールなカラス避けも見かけた。
これは怖い。
完全にウォーキングデッドの世界だ。
さて、寒波が流れてくるという予報だったので、昨日の夜、10時に最後の薪を投入。
現段階で準備ができている薪で最も巨大なクヌギを打ち込んだ。
さてそれから8時間後の今朝。
炉内の様子は・・・
おや、全て燃え尽きたか?
空気の絞りが足りなかったな、と思いながら灰を吹き飛ばすと、
大量の熾が赤々と返事をする。
朝もマイナス1、2度の外気温。
寒いので、この熾を利用して朝の焚き付けを行なう。
焚き付けを組んで、一番上に割り箸を置いて、その上に巨大なドブネズミくらいのサイズの熾を乗せる。
空気を送り込むと、
いい具合に燃え始めて、
やがて簡単に燃焼。スムーズに巡航運転になった。
どうだ、ネスターマーティンでもこれくらいのことはできるんだ(笑)。
最近、薪ストーブユーザーである職場の先輩と話した時、鋼鉄製薪ストーブの焚き付けがいかに楽か、ということを切々と説かれたのだが・・・
その先輩はカナダの鋼鉄製ストーブを使っていて、焚き付けは中割りをバーナーで炙るだけだそうだ。なんと楽な焚き付け方法なんだ。
「焚き付けにそんなに時間がかかるネスターマーティンってどうなの?何で人気があるの?」
と言われて答えに窮する。確かに焚き付けは大変だ。細い焚き付け材もたくさん用意しておかないといけない。
でもだがしかし、やはり鋳物製ストーブの良さは確実にある。
ネスターマーティンの良さも確実にある。
じわじわ暖かいこの感覚は言葉ではなかなか伝わらないけど、朝でも天板が暖かみを帯びているということは、かなり長時間に渡って熱を出し続けていたということだろう。鋳物の輻射熱がどう良いのか、口ではなかなか言い表すのが難しい。
どちらがいいかという問題ではなく、自分の暮らしに合ったストーブと出会うのが大切だということだろう。
おっともう昼じゃないか。
今日は雪で仕事が休みだ。
そろそろ昼飯の用意をするとしよう。
薪ストーブカンブリア紀⑧ 便利さの感動は続かない
週末まで怒涛の仕事が入っていて、先週の日曜以来久しぶりの休みだ。
働きすぎだ。
働き方改革は我が身にまでは及んでいないようだ。
最低でも週休3日は欲しいところだが、贅沢も言えない。
さて、そんなわけで、平和な日曜日。
昨日の夜にあらかた薪を使い切ってしまったので、室内の薪の備蓄がなくなった。
見事にあと一本、頼りなげな雑木の薪があるだけだ。焚き付けも心細い。
今日はまず室内への薪運びをしよう。
ところで、最近つくづく思うのだが、薪ストーブで暖をとる、という暮らし方も3年目。だんだん慣れてきたと言っていいだろう。
それでも、薪を焚いて、部屋の中に火がある暮らしの感動はなかなか薄れない。
もちろん、感動の形は違うんだけど、それでも、夕方に寒くなってきてストーブに火を入れるときは、何かしら満たされた気持ちになり、何かしらの手応えのようなもの、生きている実感のようなものをいまだに感じる。
これは一体なんだろう。
一方で、便利さの感動は長続きしない。
少し前、テレビが地デジに切り替わって、古いアナログのテレビが観られなくなるということがあった。
地デジの画像は今までのアナログテレビとは比べ物にならないくらい高画質で、それは素人の目にも明らかだった。
驚くべき美しさの画面、場合によっては見なくていいものまで映り込むほどの高画質な画面に、しかしながらあっという間に慣れてしまい、すぐに何も感じなくなった。
日々驚異的に進歩する身の回りの科学技術も、あっという間に慣れる。
やはり、便利さの感動は長続きしないようだ。
翻って、薪ストーブだ。
どうして、火を焚く度にしみじみ感動するのか。おそらく、ストーブの暖かさの代償をきちんと払っているからだと思う。
原木を集めてくる。薪を割る。積み上げる。
乾燥させる。家の中に運び込む。
焚き付けを組んでマッチで火を着ける。
それは、薪ストーブの素晴らしい暖かさを享受するにふさわしい、人間らしくて地に足のついた労働の対価と言えないだろうか。
お金で媒介される中で物事の本質が曖昧にされがちな資本主義の原理が入り込めない、原始的な価値観がある。
畑で育てた野菜を食べたり、山で仕留めた鹿を食べたりするのと同じ、極めてプリミティブな営みだ。
おそらくこれからも、薪を焚く度に、何かしらの手応え、感動という言葉は正確ではないかも知れないが、感動と似たような気持ちを抱き続けると思う。
世界は見るからに混乱している。
最近、ロシアのプーチンにオリバーストーンがインタビューした本を読んだ。
プーチンの発言が全て正しいかどうかは別にして、いかに自分が西側諸国に都合の良い理屈だけで様々な事を判断していたかを痛感させられた。
分かっていたはずだけど、あらゆる立場にはその立場なりの正しさがある。
アメリカにとっては、プーチンは独裁者でないと都合が悪いし、ロシアは何か良からぬ事を企んでいるように見えないと困るのだ。
多角的な視野を持つ事ができるという意味で、必読の書だと思う。
国際政治の混乱の原因がよく分かる本だ。
そう、世界は混乱している。
新型肺炎のパンデミックだって、色んなことの結果として出てきたものだ。
もはや何も不思議はない。
こんな時に自分にできる正しいことは何だろうか。
まあ、まずは薪を割ることか。
なるべき地に足を着けていよう。
日々の暮らしこそが全てだ。お金だけじゃ家族は守れない時代がすぐそこまで来ている。
今、我が家の土場にはこれだけの玉が転がってる。
雑木はかなり割り終えて、ほとんどが杉とヒノキ。あとは樫が少し残っているだけだ。
この巨大ヒノキ玉の上に、割り終わりの最後ケヤキの薪が乗せてある。
ケヤキの薪割りには苦労したが、それでもなるべく無節のものを選んで持って帰ってきたので、なんとか全て薪にする事ができた。
節がキツいものは足掻いても割れない。
これらの薪割りと並行して、今日は天気がいいので薪棚の補修にも手をつけようと思っている。
良い一日になりそうだ。